2023.01.31

その神社は、“霧島”の自然への感謝から生まれた。

  • #歴史

霧島酒造ブランドの象徴、
霧島焼酎神社の歴史に迫る。

「霧島」という地名は、霧島連山のふもとに霧が立ち込めるとき、山が島のように浮かんで見えることから名付けられたとされている。
そんな神秘的な地名を冠した霧島酒造の敷地内には、宮崎・鹿児島の県境をまたいだ霧島一帯を代表する神宮である霧島神宮から分霊を受けた、由緒正しい神社がある。肇国(ちょうこく)の祖神であり、農業の神としても知られるニニギノミコトを祀る『霧島焼酎神社』だ。
その建立にいたるまでの想いを、代表取締役社長の江夏順行にたずねた。
※新しく国家を建てること

1916年(大正5年)創業の霧島酒造初代社長である江夏吉助は、都城市下川東の本社内に、自然の恵みへの感謝として、霧島神宮をはじめとする地域の神社の御札を奉納し、祭壇を設け、社内の守護神として崇敬してきた。経緯は定かではないが、同じ頃に霧島神宮から分霊を受けたとされている。

霧島酒造初代社長 江夏 吉助

分霊の際には、宮司(神宮の長)が七日七夜かけて行う、とても重要なまつりが執り行われる。
そもそも、霧島神宮が霧島酒造のような一企業に分霊を行うということは珍しいことだという。
霧島神宮の関係者によると、「当時の霧島神宮の長は、吉助さんが常日頃から深く神を敬い、よく参拝にも訪れていたことを知っていたそうです。末代まで大切にしていただけそうな企業だと認めて、特別に分霊が決まりました」とのことだ。

霧島神宮

そのような流れもあり、1983年に2代目社長の江夏順吉も、1986年に竣工する当時の新工場(現 志比田工場)の建設にあたって、霧島神宮より新たに分霊をいただき、志比田に祭壇を設けている。この分霊が今の霧島焼酎神社のルーツとなっている。
順行は、霧島酒造のブランドの具現化にあたって、霧島焼酎神社は欠かせない存在だと考えていた。
「企業が長く続いていくためには、伝統などの付加価値をもつことが必要です。霧島焼酎神社には、伝統を感じられる要素がたくさんあります。あの霧島神宮から分霊をいただいたということに加え、ご祭神であるニニギノミコトの妃、コノハナサクヤヒメの父は、お酒の神様なんですよ」
この伝統という付加価値を、焼酎を飲んでくださっている方に、より身近に感じてもらいたいと、2014年4月、同神宮の承諾を得て、焼酎の里 霧島ファクトリーガーデン内に参道や鳥居などを備える神社として整え、遷座した。

神社建立の際には、順行自ら、様々な民間企業の敷地内にある神社の視察を重ね、随所にこだわりを詰めた。
順行は若い頃、伊勢神宮で2週間ほど過ごしたことがあり、その際に感銘を受けた神明(しんめい)造りを採用。木造にし、ヒノキの四方丸太を取り寄せた。
神域とならない鳥居手前では、焼酎メーカーらしさを出しても良いのではと考え、かつてお酒の販売に使用していた甕(かめ)を手水鉢にするアイディアも取り入れている。
遷座祭(遷座に伴う儀式)は、従来なら本宮である霧島神宮に仕える人間のみで行うことが多い。しかし、このときは、吉助から続く奉仕もあって、特別に霧島酒造社員も役割をいただき参加したそうだ。

現在も、霧島焼酎神社は、誰もが参拝できる開かれた場となっており、工場見学などにいらっしゃったお客様が立ち寄られることも多い。
御利益には、焼酎は良い食生活を支え、食欲を大いに増進させることから「健康⾧寿」、心の壁を取り払い、親しくなるための特効薬となり得ることから「商売繁盛」、人と人を結び付けることから「縁結び」がある。
昔から神社はお酒が振る舞われるなど、交流が生まれる場であり、霧島焼酎神社も人の繋がりを活性化するきっかけでありたいという願いが込められている。

「ブランドをつくるということは、長い旅路のようなもので辛抱強さが必要です。お客様と一緒につくりあげていかないといけません。霧島焼酎を手に取ったときに、背後にある“霧島”の情景を思い描いていただけたら喜ばしいですね。」と順行は話す。
長い歴史をもつ霧島神宮を祖とし、代々大切にされてきた霧島焼酎神社は、これからも霧島酒造のブランドの象徴として在り続ける。

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