2022.02.28

20度焼酎は、日本のひなた「宮崎」を照らし続けてきた。

  • #歴史

戦後の日々に寄り添った「20度」焼酎が、
宮崎の文化となるまでの歴史を辿る。

全国で飲まれている焼酎のアルコール度数は、「25度」が多い。
でも、お店の棚にずらりと並ぶ焼酎のなかには、実は「20度」のものもある。
焼酎の消費量が多い宮崎では、好んで飲まれているものだ。

20度焼酎の歴史は戦後までさかのぼる。
戦時中は、生活に必要な物資が常に不足していて、食糧や衣料品などは、配給制度で手に入れるしかなかった。終戦後にはその制度も徐々になくなっていったが、すべての物資がすぐに手に入るようになったわけではない。
焼酎をはじめとした酒類は、まさにそれだ。

1940年に制定された旧酒税法は、25度までの酒には一律同額の酒税がかかり、そこから1度上がるごとに、税率も上がるという制度。その影響で、酒造会社が造る焼酎は25度が主流になっていた。
一般家庭でのお酒の醸造も制限され、焼酎を楽しむ機会も減っていたそうだ。

いつの時代も同じだろうが、お酒を飲むことは日々のささやかな慰労になる。
敗戦後で、何かとままならぬ毎日。晩酌で疲れを癒したり、気のおけない仲間と酌み交わしたりして、心身をリフレッシュさせたいと思うのは当然のことだ。
それなのに、簡単に手に入らない。高くて買えない。決して目に見えることはないが、社会全体に鬱憤のようなものが溜まっていったのだろう。

そこにつけ込んだのが「密造酒」だった。
経営困難に陥った酒蔵が秘密裏にお酒を造って安く販売したり、国から認可を受けていない素人が勝手に造ったりしたものに、日々の癒しを求める人たちが手を伸ばしたのだ。
社会の隠れたニーズに刺さった「密造酒」は、一気に広まっていった。

宮崎は、特に「密造酒」の拠点が多かった。
一説によると、焼酎造りが盛んな奄美大島や沖縄から疎開した住民が多く、生活のために密造していたようだ。

「密造酒」が社会的問題となるのに、そう時間はかからなかった。
結局は“違法”とされるもの。焼酎と呼べない粗悪品や原料・度数・製法が不明なものも少なくはない。
そして、何よりも危惧されたのは、中毒性や命を脅かす危険性があるものも出回っていたことだった。
この事態を重く見た国は、1953年に酒税法を改訂。20度以下の焼酎の税額を低く設定し、安価で販売できるようにした。

その頃、霧島酒造では、江夏順吉が2代目の代表取締役社長として就任。
焼酎の品質向上を一生のテーマとして掲げ、ブレンド技術の向上や蒸留機の開発などに取り組んでいた。
そうした酒造会社の努力が、質の高い20度焼酎を生み、「密造酒」は衰退の道を辿っていったのだ。
「密造酒」対策がきっかけで生まれた20度焼酎だが、焼酎文化が根付いていた宮崎県では好意的に受け入れられ、一時は25度焼酎の売上がわずか数パーセントになったほどだ。

「黒キリは“き”で飲む派やとよ」
「“き”が一番芋のうまみを感じるがね」
いまも宮崎県内でよく聞かれる“き”とは、焼酎をストレートで飲むこと。水で割らず、氷も入れない。
焼酎の味をしっかり楽しみたい人たちにとっては、お馴染みの飲み方だ。
20度焼酎は度数が低いため、水で薄めなくても飲みやすい。芋焼酎の風味をしっかりと味わえるのだ。
焼酎文化が浸透している宮崎だからこその光景と言えるだろう。

霧島酒造では、黒霧島と白霧島では20度と25度を、「霧島《宮崎限定》」と「ゴールドラベル霧島」は20度のみを造っている。
20度焼酎は宮崎県内での流通が主だったが、最近では本州エリアへの出荷も増えつつある。

霧島酒造の20度商品(左から黒霧島、白霧島、霧島《宮崎限定》、ゴールドラベル霧島)

戦後であろうと、現代であろうと、そしてこれから先の未来であろうと、日々を懸命に生きる人たちはいる。その疲れを癒すために、だれもが手を伸ばせる「20度」焼酎は在り続ける。
もし近くのお店で20度焼酎を見かけたとき、もしくは、宮崎に訪れたときには、ぜひ20度焼酎を“き”で味わう焼酎文化を楽しんでもらいたい。

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